焚き火の石積み

八ヶ岳の麓、標高1,180mに棲家をかまえ8年が経つ。

近隣には住人がおらず、洗濯物や物音、子供達の騒ぐ声などなど、人目を気にせずに生活でき有難いことに焚き火が自由にできる場所である。

来客があると、火を囲み夜な夜な温かいものや妙水を片手に愉しむのご褒美のような時間があるので

その焚き火をもう少し居心地よくする為に場所を築くことにした。

当時長女(15歳)と、次女(3歳)の力を借りて、その辺りにある大小様々な石を運び集めた。

次女は彼女が持てる小さな石を運び、15歳の長女は嫌々言いながらも重い石や、猫車を押してくれた。

丸く浅めの穴を堀り、石を敷き詰め、周りに石を積みながらその穴を囲うことにした。

さて積み上げてみると、丸っこい石、平たい石、でこぼこの石。

それぞれの石がそれぞれの役割をしながら重なってゆき円を成した。とても自然に。

私はそれら石の相互関係と個々存在にひどく感激したのだ。大きな平たい石の間には小さくも不揃いでも、その隙間を埋めてくれるような形の石が必ず居てくれたのだ。なんと、みんなそれぞれに素晴らしい形なのだろうかと、そしてどの石も、どこかに必ず収まる場所があり、どんな石にも必要性があることに気づき、深く心が揺さぶられた。

それと同時に、偶々手元に2~3個あった、直角の整ったレンガだけはどこにも入れなかったのだ。

なんとも綺麗で便利そうなものが、1番やっかいな存在となった。

作られたレンガは、同じレンガの中でのみ役割を果たすのか?

それは逆説的だけど、共通するものもある。

3歳の娘の力で運ぶのが可能な重さの小さな石でも、ちゃんとそれぞれにも多大な力があること。

そして、15歳の娘の「なんでこんな大変なことやるの?」という、反抗期の若さの問いかけに答える言葉の

そして意味の大切さ。思考。

石も人もそれぞれの存在意義があるなあと。

出来上がった時に、私は素直に美しいなあ、嬉しいなと思った。そして、必要な物とは何か?

必要な物を作って、出来上がるときの喜びや有り難さ。

そして、それが美しいと思えること。

私は生活と芸術がここにある!と確信した瞬間だった。生活芸術はどこにでも潜んでいる。

そして、だれでも生活芸術家なのだと思うのです。