Vol.10 性とお面とお味噌汁の芸術 with 相澤和典さん
2023年12月23日
お面とはなんぞや?なんで宝物なの?
こんにちは!
皆さんにとってのお守りって何かありますか?
私のアトリエではいくつかの自分にとってのお守りがありまして、 1つはコシラエル本店から移築したアーチと、もう1つは在本彌生さんという写真家の方の馬の写真がありまして、そして大きな「お面」があります。
そのお面についてお話をお伺いしたく、本日は長野県松本市のおっとぼけ美術館にお邪魔しております。
ということで、本日のゲストはおっとぼけ美術館の館長でもあり、飴細工職人でもある
相澤和典さんです。よろしくお願いします。
よろしくお願いいたします。
飴細工職人さんの他にも肩書きがありそうですが、その話は後ほど聞かせてもらってもいいですか。
はい、分かりました。
緊張してますか?
はい、緊張してます。
どうですか?最近。
今は、飴の忙しい季節になってきたので。
暮れに向けて忙しくなるんですか?
1月にあめ市っていうお祭りがあるんですよね、松本では。
へ〜松本で。
それに向けて製造数が増えていくので、この秋冬はもう休みを返上してみたいな感じで作ってます。
そうですか〜、貴重なお休みの日をこんなラジオに出ていただいて。
いやいや、いいんです!こちらこそ。
いや、なんで僕は呼ばれたんだろうっていう、そういう不思議な気持ちがありました。
いいのかなぁって。
だって今日で2回目ですもんね、お会いするのが。
そうですね。
私は兼ねてから、もう少しお話を伺いたいっていうのはとっても思っておりまして。
このまま相澤さんのお話をちょっとお伺いしたいんですけれども。
皆さんには、そのお面とはなんぞや?とかなんで宝物なの?とか多分気になるところだと思うので、私の方からどんなお面かのエピソードをちょっと話してもいいですか?
はい、どうぞ。
私がこのお面と出会ったのは、まず東京から長野県茅野市に移住したのが6年前なんです。
家の近くに蓼科湖という湖がありまして、その湖畔に民芸品屋さん、お土産屋さんがあるんですね。
普通の観光バスが停まって売るような、でもとっても多分古いはずで。
そこになんとなく入ったら、店内に異様なお面が並んでたんですよ。
私はもう1発で「なんじゃこりゃ!」みたいな、気になってしょうがなくて。
家の近所ということもあって、ちょこちょこ見に行ってたんですよ。
よくわからないこのお面。
ちょっと説明書みたいなのもあるんだけれども、どこで作られたのかしらと、最初見た目はアフリカのお面かと思ったんですね。
あぁー、そうですね。
それでよく見ると信州の民芸品って書いてあって。
でも、調べてもなんかあんまり情報がないんですよ。
そうですね。
その隣には、おっきなイボが付いたカッパの張り子のお面とかもあったりして。
昔から信州にある民話の登場人物で、見た目から「イボ」とか「民話」とかで検索してもヒットしないんです。
ますます謎に包まれ出したんですよね。
この魅力と、もう一体なんなんだろう?って。
で、ちっちゃいお面を1つ買って見ても、もちろんホームページとかも載ってないですし、また活版印刷のすごいかっこいい紙がペラッと入っていて、なんかしびれると思ってたんです。
そしたらその数ヶ月後ぐらいに、Instagramを開いてたら流れてきたんですよ!
そこに#おっとぼけ美術館って書いてあったんです。
あ、そうなんですか。
それで何?何?何?と思って、探していたピースの1個が落ちていたような気がして、しかも重要なキーワードが。
もちろんパッと探して、ここにすぐ娘と来たんですよね。
それで初めてお会いしたのが、3年前ぐらい?
そうですね、3年前ぐらい(笑)。
そこで何かというものが分かり始めた!というお面のお話です。
愛・性・人間の根源を創造し続けた宮田嵐村という人物
うちのアトリエに来た方は、これ何?ってほとんどの方がおっしゃるんですよ。
やっぱ聞くよねって私は思って、その都度ご紹介をさせてもらってるんですけれども、もっともっと知りたいと思って相澤さんにお話伺いたかったというのが、長年の想いが今日叶った感じです。
ありがとうございます(笑)。
まず、これを作った方はどなたなんでしょうか?
これは、宮田嵐村(みやた・らんそん)っていう方が、 1956年(昭和31年)に初めて創造したんです。
なので、そろそろ70年近い歴史があるんですけど、この物自体っていうのはいわゆる民芸品って呼ばれてる 世界のもので、先生が自分の手で 制作をして作った商品とかではなくて、先生が原型をまず自分で作るんですけど、その後、木を掘る職人であるとかお面を張っていく内職の方とか、そういう方たちにバトンタッチしてその人たちが製造をして、分業体制の中で1つの作品というか商品が出来上がったものなんですよね。
それで様々な問屋さんとか元々は日本民芸っていう会社が直接、小渕沢とか小諸とか木曽とか蓼科もそうですし、そういった土産物屋に納品して広く配達して販売してた。そういったものですね。
なるほど。
今、出していただいた木彫りの木型、もう見るからにお面の型なんですけれども、これ自体も嵐村先生がお作りになったんですか?
デザインは先生がまず作るんです。
その後、この近所にも木を彫る職人さんがいて、やっぱりそういう土地なんですよね、松本は。
近くに職人さんがいて、その方にいくつ作ってくれや〜みたいな感じで依頼をして、同じものを同じように作ってもらって、そこからまた張る人がいて、という形ですね。
前回伺った時に、今、私がお話しさせていただいてるこの場所は、ここで実際張り子を作ったり色付けをしたりしてた場所っておっしゃってました。
そうですね、昔は社員がいて忙しい時はみんなで作業したり、でも大概はこの辺りの農閑期の手の器用なおじいさん、おばあさんが内職みたいな形で。
冬とかですかね?
そうですね、夏もやったりとかしてましたけどそういった方たちにお願いをして、張る人、ラッカーを塗る人、絵を描く人みたいな感じで、そうやって作られてきた。
この漆?と思いきや泥を塗ったりしていたって、漆っぽくしている手法もすごく面白いなと思って。
見たことのないこの感じというか、色の付き方とこの素朴な土着的な崇高な感じと。
なのに!!っていうところで、もう1つ気になりポイントがありますよね(笑)。
それは、びっくりしたんですけれども、愛とか性・人間の根源みたいなのが全てモチーフになっているお面っていうところで、私はもうひっくり返ったんですよね!
男性の性器、女性の性器が顔になっているという、それはそれは言われるまで気付かなかったですし、なんじゃこりゃ!のその上をいかれたというか。
面白いクスっと笑う感じと、実はひっくり返すとほんとにいちばん大事な部分というか、根源・人間性みたいなところもあると分かった時に、もう「はは〜」みたいなひれ伏す感じ。
そこで、その宮田嵐村さんがどんな人だろうっていうのにまず興味が出てきたんですね。
私が調べたことをお伝えさせてもらうと、1920年(大正9年)に北安曇野の美麻村(現在の大町市)でお生まれになって、2012年に92歳で亡くなられた画家の方。合ってます?
はい、そうですね。
画家、芸術家であったんですね、道祖神をモチーフに。
道祖神(どうそじん)って皆さんご存じないかなと思って、一応お伝えさせていただくと、よく道端にあるお地蔵さんとか村の境目とか峠とかの路肩にあって、由来は調べると外来からの疫病とか悪霊とかを防ぐ神様みたいな感じで、のちに縁結びになったり旅行安全の神になったり子供と親しい神様だったんですってね。
それをモチーフにして道祖面(どうそめん)というお面ができて、木彫りとか張り子とかのお面になった。
宮田嵐村さんという方はそのデザイナーだったという感じですか?
うん、まさにその通りですね。
嵐村先生がやってた珍スポットに行ってみたら
それで、相澤さんと嵐村さんはどのように出会われたのかな?っていうのを今日いちばんお聞きしたくて!
ハハハハ。
多分、今チカさんがすごい好奇心を持って「これなんだろう」っていう想いとおんなじなんです。
僕が松本に移住してきたのは。。
松本のお生まれじゃないんですか!?どちらなんですか?
僕、仙台なんですよ。
そうなんですか〜!
28年前(1995年)に引っ越してきたんですよね。
じゃあまだ(嵐村さんが)ご存命の時に?
存命なんですけど、僕が先生を初めて見たのは来て3、4年ぐらい経った時に、当時付き合ってた女の子がこういうものに関心があって「相澤くん好きだから、これどう?」みたいな、そういう情報をくれたんですよね。
それで、僕も彼女からきか聞く前にすでに松本の図書館で、共同資料室みたいな書棚があってそこを見てた時に「なんだろう?これ」って、同じですよね。
これは何時代のものなんだろうかとか、すごくクエスチョンがいっぱいできてなんか気になるって、その話をしてた時に彼女の話もあって。
彼女は、バンドの「たま」の石川浩司さんが松本の取材をしたことがあったのかな、なんかコーナーを持ってたとかで、それで先生のやってたスポットに。
先生が「信州庶民館」っていう、ちょっと変なスポットをやってらっしゃったんですよね。
民芸レストランと道祖神資料室みたいなの。
やばそう〜〜(笑)行ってみたい。
今でいうと珍スポットみたいな。
それで僕もそこに行ってみて、 地下を降りていくと変なお面が階段にずらっと並んでたりとかしたり、中を見ると道祖神関係の資料がいっぱいあってゴチャゴチャしてたんですけど、その奥に暗幕があって、200円を自分で入れて暗幕をめくって中を探索してもらうみたいな、そういうスポットをやってたんですよね(笑)。
そこ見たら、ほんとに素朴な感じではあったんですけど、江戸時代の性にまつわる…
春画みたいなこと?
春画みたいなのもあったし、あと金精様(こんせいさま)と言って男根(だんこん)の、、いいのかな…(笑)
もちろん(笑)
お祭りとかよく神社とかで祭ってあるとこありますよね。石でできたりとか?
その時見たのはなんだったかな?
先生が作ったものだと思うんですよ。
そういうのがドカーンと展示してあって。
でも縄文でもありますもんね。
だから続いてるってことですよね。
そうですね、性器信仰自体は縄文時代からそういうのあるので、続いてますね。
そういうちょっとしたその春画にまつわるものであるとか、そういう性にまつわるいろんなものが展示してあって。
で、体内巡りができるような、ちょっと狭い薄暗い感じのところを腰をかがめて探索して、最後に金精様の神社をまつってあって、それでぐるっと帰ってくるみたいな。
そういうしょうもないっていうか、こんなこと言っちゃいけないですね(笑)。
いえいえ、いちばんお伺いしたかったのは、その嵐村先生はジョークっぽくやってる域(いき)をもう超えていらっしゃるじゃないですか。
本気でやってるじゃないですか、本も何冊も出されてて。
そこの本気度合いもすごいなと思ったんですよね。
晩年は不思議で愛おしい仙人のようだった
どうしても性的なことって話したがらない国民性みたいなのもあるし、人様の前では言えないみたいなタブーみたいなところを、ここまでこう引っ張り上げて言葉にしたり歌にしたり。
それってどんなテンションで?どんな感じで?使命感があったのか、何をもってそれをやる?
そしてそこになんか美がある、美しさというか人を惹きつけるものがあるっていう、そこらへんもとっても興味があって。
どんな方なんですか?
やっぱりご自分の名前に「嵐」と「村」っていう名前をつけるぐらいなんで、 結構喧嘩は職人としたり色々気性の激しい人だったらしいんですけど、僕が会った時はもう80代の後半だったし軽くボケてもいらっしゃってたので、 すごく不思議な柔らかさっていうか仙人のような、そういう穏やかな感じで日々暮らしていらっしゃって。
外で枯葉とかを本気でお掃除してるんですけど、もうずーっと同じところで同じ動作をずっとされてて、その不思議な姿がなんか愛しいな、みたいな。
何かを見てたのかもしれないですね。
ハハハ。わかんないですけどね。
ただ優しかったですね、僕が会った時は。
80歳代でお会いしたんですよね、相澤さんは。
92歳まで亡くなるその間もずっと、油絵の点数とかも結構な数があったと思うんですけれども、晩年も描かれていたんですか?創作活動というか絵に対して。
松本市美術館の市民ギャラリーか何かで自分の個展を、80歳ちょっと手前だったのかな。
それが終わった辺りを境に、だんだん創作意欲っていうのは少しずつ薄まっていった感じがあるみたいなことは息子さん言ってました。
筆を取らなくなったというか?
だんだんやろうとしてるんでしょうけど、やっぱりやりきれないっていうか。 気持ちも、老いっていうのかな、ちょっとボケてきてたりとかして。 椅子について作業しようとしてる痕跡はあったっぽいですけど、だんだん忘れちゃうっていうか。
草間弥生さんの松本市美術館でやった展示の時の、パーティーかなんかには参加されたりとかしてはいたと思うんですけど、多分直接的にはそんなに交流はなかったんじゃないかなとは思います。
そうなんですね。
でも前回来たとき、岡本太郎の話があって。
そうですね、太郎さんのところにはできた時にご自分で直接見せに行って「どうですか?」って言ったら、太郎さんが「これ欲しい」って言われたから差し上げてきたみたいです。
青山でしたっけ?ご自宅に直接行って見せてきたみたいなことは聞きました。
私、初めてこちらに伺わせてもらった時に買わせてもらった、木彫りのちょっと太陽の塔の頭みたいなちっちゃめの手のひらぐらいの、アトリエに飾ってます。
ありがとうございます。
もうあれもあれしかなくて。
もう最後だっておっしゃってた気がして。
そうなんですよ。
だからどんな方なのか、そして時代的にはやっぱり戦後生き抜いてきたアーティストとしてもだけれども、終戦あったのが多分すごく若い時、21歳とか22歳なんですよね、計算すると。
だからアーティスト活動というよりは、この土地を盛り上げたいとか民芸品でこう復興させようとか人間の力みたいな、なんて言うのかな。
人間としてこの土地でもう一度戦後頑張ろう!みたいなところでできたものかもしれないな〜とか勝手に私は想像もしたりして。
あの時のやっぱり今の人たちのパワーとは全く違う底力みたいなのが、どうしても感じるというか、敵わないところがあるなと思っていて。
先生も台湾の方に通信兵かな?行ってらっしゃって、でもただ台湾の方は、そんなに戦火がすごく大変だったっていうわけじゃなかったみたいなんですけど。
なるほど。
最後にお会いしたエピソードとかあります?
最後は、92歳の時の12月に突然お亡くなりになられたんですよね、朝方に。
ただ何かさっと逝かれた感じで、やりたいように生きたいように生きてやってらっしゃったと思うので、僕が言うのもなんですけど、すごくいい人生だったんじゃないかなとは思いますけどね。
すごく情の厚い方だったりしたようなので、 すごく人にも好かれてはいたと思うので。
「なんとかしてほしい」と言われて始めたおっとぼけ美術館
相澤さんが今おっとぼけ美術館をやられている経緯っていうのは、どんな感じなんですか?
2009年からここによく通い始めて、それでここにあるお面が好きになったもんで、松本の市内にあるギャラリーとか喫茶店を使って展示会を やり始めたんですよね。
そういう活動をしてた中で先生がお亡くなりになられて、代表(息子さん)が僕に「相澤さん、なんとかしてほしい」って言われたんですよ。
それで僕はなんとかしてほしいって言われて「それは僕がここにがっつり入り込んで、住んだりして色々やっちゃってもいいわけですか?」って言ったら「いい」って言って「あ、そうなんだ」と思って、引っ越してしまったんですよね(笑)。
そっから本格的にギャラリーのような形で直したり改築したり、今のここの作業場ももうゴミの山になったのでそういったものも整理しながら、人に見てもらえるようなところまで手直しをして今に至るという。
そうなんですか〜。
ミュージアムショップがすごいまたさらに良くて、 初めて来た時になんかアロハシャツが売ってたり、古いビンテージの結構ジャンルの幅広いレコードがあったり、小物のおもちゃとかがあったり古本があったり、とってもいい場所だなと思って。
ありがとうございます(笑)。
なんていうのかな、今ってわかりやすいものに溢れていて、すぐ開けば情報も出てきてっていう真逆。
なんかそこにこんなに本質的なものがたくさん隠れていて。
でも今日、色々腑に落ちました。
なんで私が惹かれるのかとか、なぜ私は知りたくなったんだろうとか、 もうちょっと嵐村先生がどんな方だったのかなっていうのを、分からなくても勝手に想像するのでもいいかな、なんて思うんですけれども。
あと、聞けたら聞きたかったことがもう1つあって。
嵐村先生が自宅のお風呂を五千年温泉と名付けてたんですか?
あぁ、五千万年温泉。
五千万温泉!(笑)それはなんですか?
よく、覚えてらっしゃいますね〜。
結局、先生の遊び心だったりサービス精神だったりすると思うんですけど、24時間風呂ってありますよね。
麦飯石(ばくはんせき)っていう石があって、そこを水を循環させて綺麗にして24時間沸いてるお風呂があってそれを導入したんですけど、その時に先生がお客さんに楽しんでもらうために、ご自分でお風呂場の中にちょっとヌードの女性の絵を飾ったり。
油絵とかなんですか?
湯気でも大丈夫な?
油絵っていうか多分アクリルだと思うので、湯気でも大丈夫。
そういう絵を飾ったり、あといわゆるこの風呂はこういう歴史があってみたいな、そういう効能書きみたいなのを書いたりとか、そういう感じで。
いつでも来た人に入ってもらいたいっていう(笑)、 ふざけたことですよね。
面白いなと思って、それで今回展示をやった時にDM作ったもんで、タイトル何にしようかなと思った時に「あ、五千万年温泉って使わせてもらおう」と思って、それでやったという。
かっこいいですよね。
タイトルかっこいい(笑)。
ありがとうございます。
相澤さんがどういう方かっていうのも今回すごくお聞きしたくて。
初めて来た時に情報量が多すぎて、家に帰ってももう色々残るものが多かったんですね。
88か所の台所でお味噌汁をいただく「台所新聞」
ミュージアムショップの片隅に新聞がありまして、 ZINE(ジン)みたいなフリーペーパーみたいな、「これなんですか」って言ったら「いや、僕が昔作ってて〜」みたいな、「え!?どういうことですか」って。
お味噌汁の新聞ですよね。
あれはどういうものか、リスナーの方にちょっと説明していただけないでしょうか?
2005年から始めた自分の趣味の新聞なんですけれども、88か所のお遍路スタイルで人様の台所に侵入をして、そのご自宅の方にお味噌汁を作っていただいて、僕が食べさせてもらって、その日の日記を書き、台所の写真を撮り、自宅の方と筆談をして。
筆談ですか?口頭では喋らないんですか?
日記の部分と筆談の部分もあって、そこで一応交流したという証を形にして新聞にしてるものです(笑)。
全部が筆談なわけではないんですね。
違いますね。日記でワープロ打ちしてる部分もあります。
それが、束ねた紙を糸でクルっと引っかけて、ピッと切ったら1枚ずつ破れて持っていけるスタイルみたいなのを最初やられてたっておっしゃってましたよね。
要は、破れやすくできてるんですよね。
糸として?新聞自体の存在として?
そうそうそう、切り取り線が入ってるんで壊れやすいという、そういう新聞ですね。
それは消滅というか、そんなには長く保管されず残されず、日常の消耗品的な感じで読んでもらえたら、みたいな意図があるんですか?
意図としては、いたずらですね(笑)。
単にいたずらっていうか、あの新聞自体もいたずらの感じなんですよね。
僕は松本に来た時に、松本ってすごく20万人ちょっとでこじんまりとしてるんですけど、なんか文化の香りみたいなのもちょっとあって。
ちょっとどころじゃないですよ、茅野から比べると結構カルチャー都市だと思いますよ!
まぁね、僕が来た当時は今よりももっと素朴な感じ。
まだ松本っていうと山の街で、登山者の人が駅で結構うろうろしてたりで、街中の駅周辺にも銭湯はたくさんあったんですよね。
そうすると、山のお客さんってやっぱちょっと歩いてお風呂入りたいっていう人もいたりして、そういう山の人とかが駅に寝てたりとか、今は寝れないですけど、ちょっと素朴な感じというか。
今はやっぱり綺麗な街に結構なっちゃったっていうか、新しい人たちもどんどん入ってきてるし、松本も注目された1つの街としてあったんですけど、僕が来たときはまだゆったりしてるっていうか、商店街なんかもやっぱりちょうどシャッター街になってたりとかもして、街が眠ってるような感じがあって。
そういう街がなんとなく僕、好きだったんですよ。古ぼけた感じが。
自分もなんか変なことやっていいような感じがした
その時にもちろん松本って地の利がいいので、大阪とか東京とかいろんな外からの人たちも入ってきてるんですけど、やっぱりそういうロックとかアートとか芝居の人であるとかヒッピーの人とか、そういう変な人たちが割といたりとかして。
そういう人たちを見ながら、なんとなく自分もなんか変なことやっていいような感じがしたんですよ。
席が空いてるような気がして、なんかやってみようみたいな感じで。
それで、初めて音楽イベントとかそういうイベントやり始めたんですけど、それと同時に音楽を紹介するフリーペーパーみたいなことで、紙もののメディアでそういう表現をやり始めたりとか、色々自分でも好き勝手やり始めたんですね。
その延長の中であの「台所新聞」ってちょっとできてて、結局いろんなイベントをやってるうちに10年間ぐらいやってて、大体やり終わったかなみたいな感じがして。
もっと身近なもので身近にいる人たちで、あえて持ってくるんじゃなくて、 身近な人たちの中で出会うことで、知ってたり友達だったりするんですけど、あえて僕がしゃもじ持ったヨネスケみたいな感じで乗り込むことで、なんかこう異質じゃないですか。
普段知ってるけど普段入って来ないようなスペースに僕が行くことで、何にも事件性は起きないけど、でも普段では得られないような発見もやっぱり僕はあったりするし、お互いね。
そういう何か出会いのインパクトとして、そういう面白さがあるかなと。
この取材を受ける側にしても、あまりにもお味噌汁って自分の中の日常すぎることで、それが超日常なんだけど他人から見ると「え、そういう風にするの?」っていうこととか、自分で「あ、これは私だけの儀式的なものだったんだ」とか、気付きそうですよね。
そうですね、やっぱり意外な発見があるし。
味噌汁なんですけどやっぱりみんなそれぞれ全く違うっていうか、同じように見えてやっぱ違って、そういう違いが行くたびにやっぱりあるし、そういうのが当たり前だったことなんだけど、もっと突っ込んで入ってみると「あ、そういうこともあるんだ」みたいな。
確かに、ダシにしてもお水にしてもお鍋にしてもお碗にしても具にしても、本当に何万通り何億通りですよね。
そうですね、そういうのも見れるし、台所っていういわゆる秘所ですよね。
秘された場所なんですけど、そういったところに潜入していくっていうのは、ちょっといやらしいなと思って(笑)。
でも、いちばん生活の中心にありますもんね。
人様に言うほどのことでもなかったり。
人によってやっぱ見せたくないっていう方もいらっしゃるし、オープンな方もいらっしゃるんですけど、そこでひととき交流するっていうことをやったら面白いのかなと思って。
ぼんやりする時間をみんな忘れてしまっている
今、何か所ぐらい回ってるんですか?
69か所までできたので、あと19か所みたいな感じで。
その88か所終わった暁には!みたいなことは何かあるんですか?
1番最初に0番っていうのがあって、それは長野市のネオンホールっていうライブハウスなんですけど、そこに最初に取材に行ったんですけど、味噌汁作ってもらうの忘れちゃって(笑)。
なので一応0番にして、お礼参りみたいな感じで最後にもう一度88の終わった後にそこに行って、味噌汁作ってもらって食べて、その後に…。
知多美浜にまるは食堂っていう食堂があるんですよ。
そこにエビフライがあって、そのエビフライを食べるみたいな、そういう設定。
素晴らしい。
めっちゃいいですね。
良くない良くない(笑)。
今の話で感動したのが、88か所回った暁に「ちょっと本でも出そうかな」とか言ったら、なんか違うなって感じがしたんですよね。
いや、周りから言われてますよ。
みんなはやっぱりすぐそういう形にしたり、世間的にはせっかくこうやって頑張ってきたものを現金化しようとか。
アハハハハ!
やっぱり相澤さんのことを思ってとか、もっと相澤さんが世の中に出ればいいのにとか。今って結構そういう思考になりがちというか。
あ〜そうですよね。
でもそうじゃなくて、もう最高!と思いました(笑)。
いやいやいや、チカさん。僕だっていやらしいとこありますよ。
また〜(笑)そういうところで好感度が上がるんですよ。
ただ僕はどっちかっていうと人間的にぼんやりしてるんで、器用じゃないんですよ。
どっか違和感みたいなのをやっぱ感じちゃうんですよね、すぐ換金化するとか。
いや私ね、本当に今みんな忘れてしまっていることの1つが、ぼんやりすることだと思うの。
ぼんやりとかぼーっとしたり空想したりすることってすっごく大事で、誰にも取られないものっていうか。
それは日々に追われて、なかなかその時間作ることすら難しくなってるような気がして。
そんなのんびりしてることに、罪悪感を覚えるような社会になってるような気がするんですよね。
またそうやってぼーっとしてとか、なんもしないでとか、効率悪いとか。
そういうことじゃない!
でも私も一時期やっぱり商売やってる時には「前に進まなきゃ、もっと大きくしなきゃ、成長しなきゃ」って思っていたけれども、 振り返ると1番ほんとに何が残るんだろうとか、何が豊かなんだろうと思ったら、やっぱりぼーっと空眺めてあったかいおいしいお茶飲んだりとか、この人ってなんでこんなことを言ったんだろうとか、面白い話とかね、答えはないけど、二度と会えないかもしれないただ通りすがり人のことを思ったりとか。
なんて、なんか取り留めのない話をしてしまったんだけれども。
でも今日は、結構お聞きしたいことは。
大丈夫ですか?(笑)
もうすごいい!
大丈夫ですか(笑)、こんな感じで大丈夫でしょうか。
いや、良かったー。
おっとぼけ美術館は、しばらくはやっぱ休館なんですか?
そうですね。
どうしても今、飴屋の仕事がめっちゃ忙しくて。
でもなんか人生のサイクルがありますよね。
さっきおっしゃってたイベントやったり、ミュージシャン呼んでやったりとか、10年ぐらいやったっておっしゃってて。
私も今、コシラエルを終わってこれからどう生きようみたいな時に、ふとすごい身近なものに興味があるんですよね。
外からどんどん珍しいかっこいい、いいものばっかりやってみるとかっていうのを、一生懸命やった10年があったからこそ、今、半径すごい狭い世界にこんなに宇宙みたいな世界があるっていう何気ないことにすごく興味があったりして。
お味噌汁を始めたのは、おいくつぐらいだったんですか?
35歳の時ですかね、確か。
私は遅いんですけど、今40歳ぐらいで身近なものの何かに気付き始めたところです。
でもチカさんはいわゆる傘っていうものを使って、すごいなと思うのは「生活芸術」っていう言葉がありましたけど、もうその時から身近なものなんだけど、そこを1つのステップとして新しい世界というか。
写真集買わせてもらったんですけど、ネットでちょっと検索してなかなかなかったんですけど最近やっと見つけて、あれを見た時に、当たり前の日常の風景の中にあの傘があるだけで、こんな素敵な世界というか全く変わるというか、驚きがあって。
「生活芸術」って言葉についてどう思うかみたいなのがあった時に、あっ!と思ったのは、ご存知だと思うんですけど、鴨井陽子さんがやっぱりそういう世界ですよね。
いわゆるナイロン性の下着を、戦後間もない頃にまだ下着って言うと鈍臭いような地味な世界のものに、いきなりああいう世界で作り出したっていうのは前衛的な部分もあるけど、すごい庶民的な部分と、あとエロスというか色気というか、そういうものがすごい混然一体として、すごく「あ!人間らしいな」っていうか。
今お話伺ってて、お味噌汁と下着の共通点がありますね。
ありますか?(笑)
人に見せない自分だけのためだったり、親しい人、大事な人だけが見えるものだったり。
お味噌汁も、性と生きるって、なんか一緒っていうか。
なんかすごく共通点があるのかも、お味噌汁と下着に(笑)。
アハハハハ!
まぁでも、やっぱり性と食べるってこともなんかね。
欲ですからね。
やっぱりかなり近いものはありますよね。
なんかもうチカさんって、そういう世界観で。
いちばん最初に作った傘を失くしたから
僕、実物見たいなって。
今日は来る時にお面持ってくるって言われてたんですけど、傘持ってきてもらいたいなとか思ったりとかして(笑)。
今度うちにいらしてください。
自分の傘だったらあるので、子供たちとか家族の傘。
いちばん最初に作った傘っていうのはまだお持ちですか?
それがね。。。実はあんまり話す機会がなかったんだけど。
いちばん最初に作ったのは、母子寮の一室で2週間ぐらいかけて刺繍とか絵をした大事な傘が、もうすごい大作があるんですよ。
ある日、代々木公園で子供とピクニックして遊んだ後に失くしたの。
忘れてきたってこと?えー!!!
代々木公園行ってそのあと渋谷の安い居酒屋で飲んだんですよね。
で、家に帰ったらなかったの。居酒屋探しても代々木公園探してもなくて。
私すごくショックで。
柄も全部覚えてるんですよ。
それでショックで、でも物に依存している自分にショックだったんですよね。
よくよく考えてみると、何にショックだって。
でもだからその成仏があったんですよ。1回失った成仏が。
実は自分でこんなこと言うとちょっとお恥ずかしいんですけど、1本1本すごい大好きだったの、自分の作る傘が。
ほんと「可愛いわ!可愛いわ!」って思って作ってたのね。
自画自賛で恥ずかしいんですけど(笑)。
いやいや、そういうもんですよ。
全部、ほんとに最初売りたくなかったんですよ。
いいものができればできるほど手放したくなかったんだけど、最初に失くしちゃったから、自分の大事な一本。
だからその成仏したおかげがあるから、多分10年間売り続けられたんですよね。
もうどんなに可愛くても、とにかく出さないとと思って。
自分が持っててもね、そんな何本も傘を(笑)。
アハハハハ!
その後ちょっとミスした傘を1本ずっと使ってたの、B品の傘を。
その1本だけをずっと使ってたんですけど、今年コシラエル辞めて1本だけ白い傘が残ってたから、それを1本だけ自分用に最後かなと思って1本描いて、その2本だけなんですよ、日傘はね。
雨傘とかプリントの傘はありますけど、そんな感じ(笑)。
最初の1本はそうやって作ったなと思って。
うん、記憶の中にしかない。
不思議ですね〜。
傘の宿命みたいなものですね。
そうなの、忘れ物ナンバーワン(笑)。
でも、なんかそれって面白いっすね。
チカさんも、芸術の世界で生きていらっしゃると思うんですけど、芸術ってやっぱりとらえきれない、囲いきれないと思うんですよ。
ある日突然いなくなっちゃうっていうのは、すごく素敵だな!って。
うん、あるようでない、記憶の中に残る方がいちばん価値があるような気がして、物になってないとか。
だから、ダンスとか歌とか音楽もそうですよね、物では誰も所持できない。
そこで松澤宥の消滅みたいなのがすごく結びついちゃうというか。
今見ている紅葉だって同じものもないし、ずっと誰も所有できないものだったり、本来お金の価値もそうだったんですよね。
お米だったりお酒だったりなくなるものだったり、目減りするとか旬があるっていうか。
いつまでもあるからみんな奪い合ったり戦争になったり、所持したくなるのってすごい良くない感情な気がして。
ほら、でも好きな人とか独り占めしたくなったりするしね、人間の性(さが)って!
話が飛んじゃいましたけど、お知らせとかありますか?
また春ぐらいに開館するよ、とかあります?
そうですね。まぁ春ぐらいかな。
それはInstagramでチェック?
そうですね、ごくたまに「開いてますよ」っていうお知らせもあったりするんですけど、やっぱ秋冬はちょっと。。
寒いですしね、人間的に冬眠しなきゃいけないから、みんな。
そうですね、春夏の方が。
来たい方いらっしゃったら、こまめにSNSをチェックしていただいて。
そうですね。
私、初めて来た時も、相澤さんに威圧的な態度で前のめりすぎたんじゃないかなっていうのを懸念してたんですよ。
いや、そんなことはないですよ(笑)。
「これってなんですか!」みたいな、すごい聞いてなかったかなと思って。
アハハ!
いや、今と同じ、今と同じ。
今日はほんとにお話聞けてよかったです。
いや、こちらこそわざわざ来ていただいて光栄です。
こちらも光栄です。
ありがとうございました〜。
おっとぼけ美術館