
昔から知っている、でも初めて触るようなこの感じ。
ただ、通り過ぎて眺めていくのは、もったいない。
もっと近づきたい。
近づいて知りたい。
紐解きたいという衝動が「生活芸術」という言葉との最初の出会いだった。
「生活」と「芸術」という異なる性質の両者は、本来対等な場所に存在しいてるのではないだろうか。さらには互いに両義性があるのではないだろうか。
そして「あなたも生活芸術家で、私も生活芸術家です。」と続けたい。
私が繰り広げたい「生活芸術」には、定義もなければルールもゴールもない。
でもこれでは、ただの理想論になってしまうので、もう少し実践しながら論じてみたいと思う。
例えば、朝の刻々と変化する空の色に魅せられたり、風と葉の重なりあう声を聴 けた時、友人との何気ない会話、おぼつかない幼い手の動き。ただ生きているという目の前 の生命は、美しく、さりげない。そんなとりとめのない日常と、美術館で観たの作品が私にもたらす心の揺さ ぶりには、同等の価値があり、動力があるのでは ないか。
つまり、「美術館の中にあるものだけが、芸術ではない」ということを前置きにして言葉を進めたいと思う。
美術館に鎮座する作品は、キャンプションがあ り、社会的価値と評価(解説)が付き、保管され て丁寧に輸送され重宝される。しかし、生活の 時間は、刹那で膨大で、誰にもどこにでもある常で、見慣れたもの。さらに無形だった り、いちいち足を止めて目を留めて解説に及ば ない、誰もあえて講釈することはないことの連続で、いちいちラベルや解説、評価、保存なんて してられない。
でもその瞬間にこそ、心を動かすエネルギーがあり、公にするほどのことでもないと 思いがちだけど、すこぶる上等な素敵な粒がたくさん集積し存在している。
と言い切って、 その部分こそを、この度わざわざ取り立てて掬 い上げ、観察し、聴いて、展開してみたい。そう言い放つだけで、なんだか日常というものの見え方が変化してくる。(ような気がしてくる。)
こうして心を開いて感じよ うとすること自体が「生活芸術」の最大の視点 であり「生活芸術」の運動となり、 そこから生まれた生活芸術運動エネルギーが、 跳ね返りどういう作用をもたらすか。
それはもしかしたら、勇気になったり、生きるという連続の儚くも確かなプラスの力になり得るのではないだろうかという希望を込めなが ら、紐解きたい。
さて具体的に何をしているかというと以下の3点に挑んでいる。
1 生活芸術を表現すること。
2 生活芸術のエネルギー、運動作用を考察すること。
3 生活芸術を他者へ伝えてみること。
実は、今に始まったことではな く1993年、池上惇(1933~ )著書「生活の芸術化」 の冒頭にこう書かれている。
”私たちは「芸術は美術館のなかや劇場・音楽 ホールの中にあるもの」という常識に従って 生きています。しかし、、、、、、 ”
と、議論が展開され、130 年程前にアーツアンド クラフト運動を主導したウィリアム・モリスや、批評家でも篤志家でもある、ジョン・ラスキ ンを例に出しながら、社会をマネーカルチャー からフィランソロピー ( 社会貢献などを意味す る ) へと進化させることを提起している本がある。
もう一つ例に挙げると、もう少し時代を上がり、明治時代~昭和にかけて生きた、西村伊作(1884~1963)という人物の展覧会タイトル「Life as Art」~生活を芸術として~ があった。
西村氏は建築、家具、作陶、絵画、子供服、学校を作るなど、生涯様々に活動しながらその活動を執筆もした。
「生活芸術」という言葉に惹かれ、自己流ながら開拓していた時に、この展覧会カタログに出会い、of ではなく as というところがあまりに秀逸で、考え抜かれたこの言葉に畏敬の念を込めてここに、恐れ多くも勝手に、この訳を使わせていただいている。
ということで、生活芸術という概念は、きっと同じような ことを皆がその時代で考えていたのです。
でも、だからこそ!今、この現代に生きる私たちが、 今見えてる世界で生活芸術を捉え、実践して、 新しい眼差しで、生活芸術という概念を創りた いと熱が上がってくるのだ。
だからこそ、これまでの生活芸 術とは少し差異があることを表明したく、ネオ 生活芸術、生活芸術生活、生きる生活芸術など、 考えてみたが、やはり「生活芸術」という言葉 の持つ力にこそ一筋の光が見えるので、「生活芸 術」という名前で試みてみたい。
現在ではインテリア、ライフスタイル的な場で 用いられている事が多く、生活の中にある芸術、 暮らしに芸術を取り入れるというニュアンスが 強く、少し手軽に消費されているように感じる節があり、なんだ か寂しさを覚え、そういったことではなく、こ の「生活芸術」という、言葉の持つ強さと根底 にある核、種を引き出したい衝動に駆られている。
さてさて、もう一度。
問い考える。
「生活芸術」 とは何か?
私は、「生きていること自体」言い換えるなら「人 間らしさ」が生活芸術ではないかと考えている。
特筆したいのは、上記は私の場合の「生活芸術」 論であり、ここで展開したい生活芸術に、今は 定義もなければルールもない。
誰もが生活芸術 を自由に捉え自由に定義し発露しどんどん提唱 してほしいが、そこには、心があってほしい。そこに至るまで、その人が見出した ” 過程” が 伴っていている生活芸術であってほしい。
簡単 に検索して、わかった気にならないのが、ここ で言いたい「生活芸術」なのだ。
その人に中で 咀嚼され消化、時間をかけて昇華されたもので あってほしい。
人間らしさとは、AI ができないことと言っても いいのかもしれない。
AI が不可能なことのひとつに「過程」がある。それは大きな ポイントとなる予感がしている。
今後私が論じ たい生活芸術に、もし定義やルールが必要にな るならば、「過程」「手仕事」「人との関係性」「癒着、関係性」 「ゼロから1を作ること」など AI ができない ことが生活芸術の要素 としてあってほしい。
でもそれは好みの問題になってくるのか、AI自体が生活芸術と言わざるを得ないのかもしれない、なんだか嫌だけど。でも全てを肯定する気持ちを生活芸術には持ちたいとおもっている。裏腹に。
ここもこれからの課題というか論点になるのだろう。
そして自然と考えざるを得ない「芸術とは何 か?」同時に、「生活とは?」「人間とは?生きるとは?」という禅問答に対面する。その思考装置もまた「生活芸術」なのだと申し上げてみた い。
私たちは、人間として生まれて死ぬ。
その生まれた瞬間から「生活」が始まり、そし て「生活」が終わる。
赤ちゃんも老人も、身体が十分に機能しててもなくても、 肌の色や環境、思考、風習が異なってもこの地 球全ての生き物が「生活」をしている。呼吸と 同じく。
その呼吸と並走しながら芸術は、やけに異なる性質を帯びて存在している。
古代はもっと生活と芸術が近い距離にいて同じ位置にいたような気配を感じることがある。
これからもまた、さらに、「生活」そのものが「芸術」である。
と仮説を立て、実証 してゆきたい。